情報が多すぎませんか

現代はとても快適である。なぜなら、インターネットが誕生したからである。

インターネットの誕生によって我々はすぐに知りたいことに関する情報を手に入れることができるようになった。

しかし、最近とくに情報が多すぎてイヤになることが多い。インターネットからだけではなく、テレビや雑誌からもかなり多くの情報が手に入る。ものすごく便利な時代である。

しかし、よく考えてほしい。我々はそこまで情報が必要であろうか。たとえば、芸能人が不倫をしたとか、そんな情報など必要がないのではないか。

また、インターネットを閲覧していると、何歳までに結婚していなければ負け組であるとか、就活で勝ち組になるためにはとか、今の流行はコレとか、そんな情報必要だろうか。

そもそも、勝ち負けなどは、所詮相対的なものにすぎないわけであろう。そもそも、人の人生に勝ち負けをつけるなどという行為は、あまりにも傲慢に過ぎない。どんな人が勝ち組で、どんな人が負け組かなんて考える人はきっとオツムが弱いのでしょう。もしくは、自分たちとは異なる集合にいる人たちを負け組に設定すれば、自分たちが勝ち組になれるがゆえに勝ち負けに固執するでのあろう。

大馬鹿者だとしか言いようがない。

また、現代は(昔からホモサピエンスは変わっていないのかもしれないが)多数者の暴力としての普通という価値観を作り上げることで、普通という集合に属する人間は安心感を得ている。だが、その一方で、普通という集合に属していない人間を多数者はいたぶり続けている。たとえば、身体的、精神的に、いわゆる普通からはずれた人を障碍者に設定することで、障碍者というレッテルを貼られた人間を、多数者にとって快適な共同体を築くために排斥している。しかも多数者は、障碍者をいたわりながら「かわいそう」「自分はこうならなくてよかった」と心のなかでつぶやきながら、傲慢にも同情をする。

仕事や人間関係、学校でのいじめが苦で自殺をするという事例もあるが、これは、仕事自体や人間関係自体、いじめ自体がつらく苦しく悲しいのではない。正確には、仕事や人間関係、いじめに苦しんでいる自分がいわゆる普通から隔たった状態であることを、「ふつうであることこそ絶対正義」という価値観によって絶望させられることによってつらく苦しく悲しくなり自殺へといたるのである。

そしてなにより、インターネットは「ふつうとは」であったり、「勝ち組負け組」などというまったく意味がない情報を氾濫させすぎている。これはただ人々の不安をあおっているにすぎない。

そして、「ふつう」「勝ち組負け組」などというものにこだわりつづけている限り、我々は他でもないこの自分の人生を生きることはできない。

人生は旅に譬えられるが、人生とは厳密に言えば各人の人生である。したがって、そもそも普通な人生などありえないのである。あなたが生きている表象としての世界は私が生きている表象としての世界とは違うのである。あなたの世界はあなたの世界であり、あなたの人生はあなたの人生である。あなただけのものである。あなたが価値の創造者である。

私は、ふつうでない人間である。詳細は省くが、私はふつうではないことゆえに、高校三年間いやがらせをうけつづけてきた。死にたいと思うこともあった。そういうこともあってか、私はふつうの世界、ふつうの人生というものを憎むようになった。そして思考をつづけた結果、そもそもふつうなど存在しないということを実感するようになった。

私は抗い続けたい。この世界に牙を剥きたい。今もイヤな気分になることはある。だが、私はこのふつうの世界も、ふつうの人間も許すつもりはない。

絶対にいつか噛みついてやりたい。