プラトンの著作について

プラトンという哲学者は有名なのでご存知の方も多いと思う。

このプラトンという哲学者は、紀元前5世紀から4世紀の間に生きていたと考えられている哲学者であり、イデア論哲人政治アカデメイアの創立などで有名であるように思われる。しかし、彼の著作にはどのようなものがあるのかと問われると、あまり知らない人も多いのではないかと思う。

 

プラトンを学ぶ人のために』(内山勝利編、2014年)によると、プラトンの著作の年代区分は以下のようになるようである。

 

【初期著作】(30歳頃~40/45歳頃):『エウテュプロン』『ソクラテスの弁明』『クリトン』『ゴルギアス』『メノン』など

【中期著作】(40/45歳頃~55歳頃):『饗宴』『パイドン』『国家』『パイドロス

【後期著作】(55歳頃~80歳):『パルメニデス』『テアイテ―トス』『ティマイオス』『法律』など

 

ただし。『ソクラテスの弁明』や『クリトン』といった初期著作では、主にソクラテスの思想を語っているのではないかというのが通説のようである。(ソクラテスとは、無知の知を説いたプラトンの師のような人である。ソクラテス自身は本を書かなかったため、プラトンやクセノポン、アリストパネスなどが記したソクラテス像を追うしかない)

 

ソクラテスの弁明』や『クリトン』、『国家』や『饗宴』などは比較的有名であるかもしれない。とくに、『饗宴』は、某テレビ局の100分で名著(迷著?)らしき番組で取り上げられたことがあったような気がする。

 

教養を深めたい人にとっては読んでみると面白いであろうが、私はあまり好きではない。イデアはあるのかもしれないが、イデアの証明はあまり面白くはない。プラトンによると、イデアは、魂が人間として生まれる前に知ってたものであるということらしいが、本当かよと思ってしまう。私の持論では、イデアもまた残念ながら、人間が創りだした表象でしかない。したがって、魂があの世で見ていたとは思われないのである。

 

だが、プラトンの作品はおそらく価値あるものなのであろう。(世間が認めているからという理由に過ぎないであろうが。)したがって、世間でいう教養人なるものになりたい人は、世間的にはプラトンを読んでおくべきなのかもしれない。しかし、もしかすると、世間で求められているものは、薄っぺらい新書を読み、薄っぺらい○○哲学なんてものを読んで、社会貢献(立派な社会人様はご都合主義者だからこのようなことを平気で述べる)をすることであり、反社会的な哲学をすることはむしろ排斥されるべきことであるのかもしれない。

 

だから、私は世間的に見ると悪い人などにプラトンという作品をよんでもらいたい。決して想像力のない善人には読んでもらいたくはない。とくに、人生に意味があるなんてことを言うようなホモ・インシピエンスには読んでもらいたくはない。なぜかって?私が差別主義者だからだ。私は、善人が大嫌いだからだ。

 

まあ、とにかく、反社会的な諸君!プラトンを読み、反社会的な営みである哲学を学び、社会に反抗するための武器を磨いていこうではないか。

 

プラトンを学ぶ人のために

プラトンを学ぶ人のために

 

 

 

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

 

 

 

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

 

 

 

饗宴 (岩波文庫)

饗宴 (岩波文庫)

 

 

 

 

 

 

 

 

ニーチェという実存主義者

私は、実存主義者に大きな影響を受けているように思う。ショーペンハウアーニーチェハイデガーなどなど・・・

 

しかし、なぜ私は実存主義の影響を受けることになってしまったのであろうか?

なぜニーチェの本などを読むようになったのかは今となってはあまりよくわからないが、たぶん反社会的な性格が影響しているのだと思う。

 

ニーチェかぶれると、世界は無意味で、無価値であるものであることを説いて回る人間になりかねない。しかし、そのようなことをして回ると、おそらく友人がいなくなってしまうであろう。実際、私は、世界が無意味であることを語り続けていたら、私の周りにはあまり人が寄り付かなくなった。

 

それほどまでに悪い(社会的にか?(笑))影響を与えかねないニーチェであるが、ニーチェニヒリズムを超克しようとした人物であることを忘れてはならない。このことを忘れて、ニーチェをあざけりわらうことは許されるべきことではない。

 

ニーチェの思想は有名であるので、聞いたことがあるかもしれない。永遠回帰、超人、奴隷道徳、遠近法主義などである。とくに、超人思想は現代に生きるマイノリティに、あるいは悪人に勇気を与える思想であるように思う。

 

超人思想とは簡単に言ってしまえば、各人自らが自らの価値を創造することに努めるべきであるという思想である。現代は、閉塞的な時代であるともいわれるらしい。仮に現代が閉塞的時代であるのだとするならば、それは他者によってつくられた価値に重きを置く傾向が原因であるのではないかと思う。他者の価値は所詮他者の価値にすぎず、そのような価値を受け入れる必要性などないのだ。それなのに、我が国は、道徳教育などというもので和などというものを説き、各人の価値をも支配しようとしている。このような価値に対する支配が再生産されていけば、ますます各人は各人の生をないがしろにする状況を深刻なものとしていくことであろう。

 

超人思想はニーチェの思想の一端に過ぎず、ニーチェの思想には、他にも面白い思想が目白押しである。

 

ぜひニーチェの本、とくに『ツァラトゥストラかく語りき』は読んでもらいたいと思う。ただし、鈍感な善人どもには読んでもらいたくはない。善人など大嫌いだからだ。私は、危険思想の持主であり、差別主義者である。私は、悪人やマイノリティのみを愛する。善人など死んでしまえばよいのではないか・・・

 

 

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

 

 

情報が多すぎませんか

現代はとても快適である。なぜなら、インターネットが誕生したからである。

インターネットの誕生によって我々はすぐに知りたいことに関する情報を手に入れることができるようになった。

しかし、最近とくに情報が多すぎてイヤになることが多い。インターネットからだけではなく、テレビや雑誌からもかなり多くの情報が手に入る。ものすごく便利な時代である。

しかし、よく考えてほしい。我々はそこまで情報が必要であろうか。たとえば、芸能人が不倫をしたとか、そんな情報など必要がないのではないか。

また、インターネットを閲覧していると、何歳までに結婚していなければ負け組であるとか、就活で勝ち組になるためにはとか、今の流行はコレとか、そんな情報必要だろうか。

そもそも、勝ち負けなどは、所詮相対的なものにすぎないわけであろう。そもそも、人の人生に勝ち負けをつけるなどという行為は、あまりにも傲慢に過ぎない。どんな人が勝ち組で、どんな人が負け組かなんて考える人はきっとオツムが弱いのでしょう。もしくは、自分たちとは異なる集合にいる人たちを負け組に設定すれば、自分たちが勝ち組になれるがゆえに勝ち負けに固執するでのあろう。

大馬鹿者だとしか言いようがない。

また、現代は(昔からホモサピエンスは変わっていないのかもしれないが)多数者の暴力としての普通という価値観を作り上げることで、普通という集合に属する人間は安心感を得ている。だが、その一方で、普通という集合に属していない人間を多数者はいたぶり続けている。たとえば、身体的、精神的に、いわゆる普通からはずれた人を障碍者に設定することで、障碍者というレッテルを貼られた人間を、多数者にとって快適な共同体を築くために排斥している。しかも多数者は、障碍者をいたわりながら「かわいそう」「自分はこうならなくてよかった」と心のなかでつぶやきながら、傲慢にも同情をする。

仕事や人間関係、学校でのいじめが苦で自殺をするという事例もあるが、これは、仕事自体や人間関係自体、いじめ自体がつらく苦しく悲しいのではない。正確には、仕事や人間関係、いじめに苦しんでいる自分がいわゆる普通から隔たった状態であることを、「ふつうであることこそ絶対正義」という価値観によって絶望させられることによってつらく苦しく悲しくなり自殺へといたるのである。

そしてなにより、インターネットは「ふつうとは」であったり、「勝ち組負け組」などというまったく意味がない情報を氾濫させすぎている。これはただ人々の不安をあおっているにすぎない。

そして、「ふつう」「勝ち組負け組」などというものにこだわりつづけている限り、我々は他でもないこの自分の人生を生きることはできない。

人生は旅に譬えられるが、人生とは厳密に言えば各人の人生である。したがって、そもそも普通な人生などありえないのである。あなたが生きている表象としての世界は私が生きている表象としての世界とは違うのである。あなたの世界はあなたの世界であり、あなたの人生はあなたの人生である。あなただけのものである。あなたが価値の創造者である。

私は、ふつうでない人間である。詳細は省くが、私はふつうではないことゆえに、高校三年間いやがらせをうけつづけてきた。死にたいと思うこともあった。そういうこともあってか、私はふつうの世界、ふつうの人生というものを憎むようになった。そして思考をつづけた結果、そもそもふつうなど存在しないということを実感するようになった。

私は抗い続けたい。この世界に牙を剥きたい。今もイヤな気分になることはある。だが、私はこのふつうの世界も、ふつうの人間も許すつもりはない。

絶対にいつか噛みついてやりたい。